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ニッチャレ、日本のヨット界を率いた山崎達光さんの記憶

2021.02.16

日本における外洋レース黎明期に〈サンバード〉チームを率いて世界の海に挑み、1992年、1995年、2000年と、3回アメリカズカップに挑戦した山崎達光さんが、昨年12月6日に亡くなった。70年間、ヨットレースを誰よりも楽しんだ山崎さんの航跡を紹介したい。上の写真は、2018年10月、神奈川県のシーボニアにて撮影されたもの。

photo by Akane Inagaki

 

■〈サンバード〉で国内外転戦

1934年、東京で生まれた山崎達光さんは、高校時代にヨットに出会い、大学では早稲田大学ヨット部に所属してA級で活動した。卒業後はライトニング級でディンギーを継続しつつ、1960年代後半からは外洋レースの世界にのめり込むようになる。その後、歴代の〈サンバード〉を駆って、数多くの国内タイトルを獲得。

1970年代以降は、日本を代表する外洋レース艇のオーナーとして当時の日本外洋帆走協会の中心メンバーに名を連ね、その後、活躍の舞台は、チャイナシーレースやシドニー~ホバートレース、アドミラルズカップ、トランスパック(太平洋横断レース)など、世界の海へ広がっていった。

 

1982年、〈サンバードV〉による2回目のパンナムクリッパーカップ。上写真のバウで談笑しているのが山崎さん。写真提供:〈サンバード〉チーム。

 

■アメリカズカップに挑む

1980年代後半、最高峰のヨットレースと呼ばれるアメリカズカップに挑むべく、初の日本チーム「ニッポンチャレンジ」を立ち上げる。リーダーとして、1992年、1995年、2000年のアメリカズカップに挑戦した。

成績は、いずれも挑戦者決定シリーズベスト4。純銀のカップ獲得はかなわなかったが、この3回の挑戦には、クリス・ディクソンやピーター・ギルモアといった世界トップレベルのマッチレーサーも招聘され、関わった日本人セーラーの知識、技術レベルを大いに引き上げることとなった。

 

日本からのアメリカズカップ挑戦1号艇〈NIPPON〉の進水を伝える、舵誌1990年6月号の記事。下のほうに当時の山崎さんの笑顔も見える。

 

チームは「ニッチャレ」と呼ばれて多くのセーラーに親しまれると同時に、テレビなどへの露出もあって、ヨットレースの一般化に貢献することになった。続く2003年大会への挑戦は断念したが、「元ニッチャレセーラー」たちは日本各地に散って、現在に至るまで、世界レベルのヨットレースの伝道師となって活躍している。

 

2000年アメリカズカップに向けてのニッポンチャレンジの挑戦艇〈JPN-44 阿修羅〉
photo by Yoichi Yabe

 

その後、日本セーリング連盟の会長、名誉会長となって、セーリングスポーツの普及を目指した山崎さんが、その人生を通して日本のヨット界に与えた影響は、あまりに大きい。

冥福をお祈りいたします。

 

山崎達光(やまざき・たつみつ)。早稲田大学卒業。在学中はヨット部に在籍。大学卒業後、エスビー食品株式会社に入社。1983〜1989年代表取締役社長、1989〜2003年会長を歴任。2001〜2011年、日本セーリング連盟の会長を務める。2012年以降は同連盟名誉会長を務めた。享年86。
photo by Akane Inagaki

 

(文=Kazi編集部/中島 淳)

 

※プロフィール写真はインタビューサイト『私の哲学』取材時に撮影されたものをお借りしました。ご協力感謝いたします。

※この内容は月刊『Kazi』2021年3月号に掲載された記事から抜粋したものです。誌面では、『山崎達光さんのこと』と題し、〈サンバード〉時代をともに過ごしたクルー、ニッポンチャレンジを10年間以上支えたスタッフ、ニッポンチャレンジのクルーをきっかけにプロセーラーとなり、その後アメリカズカップに日本から挑戦する「ソフトバンク・チーム・ジャパン」を率いることになった早福和彦氏、日本セーリング連盟会長のバトンを受け取った河野博文氏に、それぞれの時代の記憶をたどってもらいました。

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