漂流、救助から8年/辛坊治郎、太平洋横断に再挑戦①

2021.03.27

ニュースキャスターとしてテレビやラジオで活躍する辛坊治郎さん(64歳)が、2021年春、太平洋横断に再挑戦する。
2013年の二人乗りで挑戦するも、クジラに衝突、漂流した失敗から8年。今回は一人乗りで大阪の淡輪から、アメリカ・サンディエゴを目指す。

出航に向けて準備を進める辛坊さんを訪ねた。

 

辛坊治郎さん。1956年、大阪府出身。早稲田大学卒業後に読売テレビ放送に入社。報道局解説委員長などを歴任し、現在は大阪綜合研究所代表。テレビ、ラジオ番組の司会やニュース解説などで活躍していたが、今回の挑戦に向けて、その多くを降板した。セーラーとしては早稲田大学在学時にディンギーに出合い、大阪に戻ってからもシカーラ(ヤマハのディンギー)などでセーリングを継続。その後、エタップやアルバトロッサーといった20ft台のセーリングクルーザーを乗り継ぐ。

 

2012年、『Kazi』誌の記事を
きっかけに回り始めた時計

まず、今回の挑戦の経緯を紹介する前に、失敗に終わった前回の挑戦について触れておく必要があるだろう。

2012年の1月号から約5年間、『Kazi』誌でコラム「なんぎな帆走月報」を連載していた辛坊さんは、同じ1月号に載ったある記事をきっかけに、以前からの夢だった太平洋横断に向かうことになる。

その記事は、クラシカルなクルージング艇、ブリストルチャネルカッター28〈エオラス〉を紹介した記事だった。〈エオラス〉は、お笑いタレントの間(はざま)寛平さんが2008年から2011年にかけて成功させた、マラソン(ランニング)とヨット(セーリング)だけで地球を一周するという冒険「アースマラソン」で使われた艇だった。ヨットでの航程には、間さんの元マネジャーで〈エオラス〉のオーナー、比企(ひき)啓之さんが同乗した。

その詳細解説記事の終わりには、「大洋クルーズに出たい夢を持っている人が希望すれば、〈エオラス〉を無償で貸し出したい」という比企さんの意向が紹介されていた。

その唐突ともいえる申し出に対するリアクションは、なんと太平洋の向こうから寄せられた。アメリカ・サンディエゴ在住の全盲のセーラー、岩本光弘さん(以下、ヒロさん)からだった。ヒロさんは16歳で視力を失った後もアクティブな生活を送っている中でセーリングと出合い、その魅力にひかれていく。その後、セーリングを教えてくれた当人であるアメリカ人女性キャレンさんと結婚したヒロさんは、子供が生まれたのを機にアメリカに移住した。

『Kazi』誌の記事を音声で"聞いて"いたヒロさんは、有名な〈エオラス〉が借りられるという話に心を躍らせ、比企さんにコンタクトを取る。すでにヒロさんの気持ちはヨットでの太平洋横断を見すえていた。

まさか全盲のセーラーからオファーがあるとは想像していなかった比企さんが、断るべきかどうか逡巡しているところに、ヒロさんから「二人乗りならどうですか」という提案があった。ヒロさんが当初想定したパートナーは、セーラーでもある妻のキャレンさんだったが、キャレンさんは辞退。すると、ヒロさんの口から意外な言葉が飛び出す。

「『Kazi』で連載をしている、辛坊さんという人はどうだろう」

連載開始から掲載されていた辛坊さんのプロフィールの最後には、「いつかは太平洋横断を目指すヨットマン」と記されていたのだ。

 

太平洋横断再挑戦のために手に入れた愛艇〈カオリンV〉(ハルベルグ・ラッシー39)。艇名は奥様の名前に由来。

 

コクピットはドジャーで完全に覆われ、ドライな状態を保てる。ドジャーを外した状態でも、ウインドシールドと高さのあるコーミングに囲われて安心感がある。

 

3月上旬、大阪湾でのテストセーリング。あらゆるデッキ艤装の不具合を洗い出して、交換や整備作業を行っている過程にある。

 

ライフラフトで漂流、
失敗した最初の挑戦

比企さんは辛坊さんにコンタクトをとって、その指名を伝える。当時、月曜日から土曜日まで朝の生放送情報番組に出演していた辛坊さんだけに、当然無理と思われたが、辛坊さんは返事を保留。そして、この太平洋横断を読売テレビのドキュメンタリー番組のプロジェクトにするという条件で、3カ月の休みへの道筋をつけた。

ヒロさんが記事を音声で聞いてふくらませた夢は、日本のテレビ局の大きなプロジェクトになり、出発は2013年6月に設定された。そして、東日本大震災の2年後という時代背景もあり、スタート地は福島県の小名浜と決まった。

「当時『24時間テレビ』の企画だというデマが広まったので、そこはあらためて否定させていただくと、まずヒロさんの申し出があり、比企さんが賛同し、それに私がのって、その後にテレビ局に持っていったわけです。いきさつはともあれ、最終的にテレビのプロジェクトになったため、出航の日取りを決めなくてはいけない状況になりました」(辛坊さん。以下同じ)

そして、スタートからわずか5日後の2013年6月21日。大荒れの海の中で〈エオラス〉はクジラと衝突。船底の亀裂から浸水したため、辛坊さんとヒロさんはライフラフト(救命いかだ)に乗り移って漂流した後、海上自衛隊に救助される。このあたりの経緯は、当時詳しく報じられたので割愛させていただくが、後に発行された辛坊さんの著書『自己責任~わずか1週間の航海~』にも詳しい。

後に行われた海難審判では、「船長責任なし。不可抗力」という裁決が下っているが、やはりスケジュール的に無理があったという。

「あの年は6月の後半から台風が発生していて、正直にいうと、もう少し早く出航しておけば……とは、ずっと感じていました。出航してから6日間、ずっと荒れていて、月も太陽も星も、一度も見えませんでした。気象の専門家との打ち合わせでは、風速20ktを超えないようなルートを選ぼうということになっていたんですが、出航したらいきなり40ktでした」

全盲のヒロさんとともに沈みゆく〈エオラス〉からライフラフトに移る過程は困難をきわめ、死を意識したという辛坊さんだったが、衛星携帯電話と国際VHF無線機を持ち出すことができたため、海上自衛隊の救難飛行艇「US-2」によって救助される。二人は大きなけがもなく生還したが、結果的に〈エオラス〉は太平洋の底に沈んだ。

「私は恵まれた漂流者だったと思います。比企さんが完璧な非常持ち出し袋を作っておいてくれましたから、ラフトの中に食料も飲料もあって、通信手段もある。自分の居場所も伝えてあるから、浮いてさえいれば助かると思っていました」

大波の中を漂うライフラフトの中で、辛坊さんとヒロさんは、実は再挑戦の意志を固めていた。

(つづく)

 

(文・写真=Kazi編集部/中島 淳)

 

※このインタビューの内容は、月刊『Kazi』2021年5月号(4月5日発売予定)の掲載予定記事から抜粋したものです。ご興味のある方は、全国書店またはこちらからお求めいただけます。

 

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