
1851年、イギリスのワイト島一周レースを〈アメリカ号〉が制し、優勝トロフィーを母国アメリカに持ち帰ったことで始まったアメリカズカップ(以下、AC)。それから175年のACの歴史で、数えきれないほどのドラマが生まれました。
今回は、その中でも「伝説」と呼ばれる第26回大会を、現地で取材したプロセーラー西村一広さんが振り返ります。(編集部)
※本記事は月刊『Kazi』2026年2月号に掲載されたものです。
◆タイトル写真
photo by America's Cup|1983年大会で銀杯を失ったデニス・コナーが、1987年の第26回ACで〈スターズ&ストライプス〉で再び参戦し、カップを奪還。この偉業は「カムバック!」と評された(編集部)
1986年、南半球の夏
2026年、明けましておめでとうございます。(※編集注:この記事は2026年1月発売の『Kazi』2月号に掲載されたものです)
年末年始という休暇モードの時期のせいもあって、このところ来年2027年開催の第38回アメリカズカップ(AC)関係情報が出てこない。
情報をあちこち探しているうちにフト、ぼくが自分の目で初めて生のAC争奪戦を目の当たりにしたのは1987年1月31日に開催された第26回AC第1レースだったことに思い至った。
2026から1987を引くと39。なんと今から39年も前の1月のことになる。
長く生きてきたものだなぁと思うとともに、その頃のことが懐かしくなったこともあって、この正月号ではそのときに観たACのことを記しておこうと思う。
南半球の西オーストラリア、フリーマントルという港町で開催された第26回ACには、6カ国から13ものヨットクラブが挑戦チームを送り込んだ。
それらを迎え撃つ防衛クラブは、オーストラリアのロイヤルパース・ヨットクラブ。
その前の第25回ACで、それまで132年間にわたってACを独占的に防衛し続けた米国ニューヨーク・ヨットクラブを初めて破り、カップを南半球まで持ち帰ったクラブである。
挑戦した13ヨットクラブの中から第26回ACへの唯一の挑戦者を選ぶ選抜シリーズ(ルイ・ヴィトンカップ)は、AC本戦の前年、1986年10月5日に始まった。
その年の北半球の夏、ぼくは7、8月のケンウッドカップ(ハワイ)、8、9月のサルディニアカップ(イタリア)と、日本チームの代表選手としての海外遠征が続いていたが、9月末にイタリアから帰国して、ほとんど間を空けずにフリーマントルに向かった。
インド洋に面した西オーストラリアは、春から夏へと向かいつつある季節だった。
『Kazi』誌のAC特集連載記事として、日本人セーラーの眼で見たレース観戦記を日本に送ることがそこでのメインの仕事だったが、その第26回ACの次の次の大会(第28回AC)に日本人として初めてAC挑戦を表明することになる故小林正和氏からも、大会の様子を詳しく見て報告してほしいと個人的に依頼もされていた(実際に日本から初めて第28回ACへの挑戦を果たしたのは故山崎達光氏)。

フリーマントルのコンパウンドで、デニス・コナーは不足する挑戦資金の一部に当てるために、ノベルティグッズも自ら販売していた。そのうちの一つ
『敗北に言い訳無し』という本をデニス本人から直接買った。中に書いていることは「負けて言い訳するんなら、ヨットレースなんかに出て来るんじゃねえよ! 」くらい厳しい
photo by Kazu Nishimura

その本で、コナーの考えるマッチレースのスタート必勝法を学び、実際のフリーマントルでの彼のスタートを観る参考にできただけでなく、その後の自分自身のマッチレースの際にも生かすことができた
photo by Kazu Nishimura

その本の扉に書いてもらったデニス直筆のサイン。1986年の日付。まだ挑戦者選抜戦の最中で、AC本戦に進めるかどうかも分からない頃の、レースの合間のある日のことだった
フリーマントルでの日々
挑戦者選抜戦シリーズは、3ラウンド行われた総当たり戦が1986年の10月、11月、12月にそれぞれ16〜18日間の日程で1ラウンドずつ開催され、その上位4チームが12月末から翌1987年1月中旬にかけて行われた準決勝と決勝戦に進み、その優勝者が第26回ACの挑戦者に選ばれる、という流れになっていた。
また、その回のACではそれと並行して防衛する側にも予選があり、その防衛者選抜戦も開催された。
そういう手順を経て、それぞれに勝ち上がった防衛者と挑戦者が、1月31日に始まる第26回AC本戦で相見えるという、長期日程のAC争奪戦だった。
それらの日程の合間に2度ほど日本に数日間帰国したものの、それ以外は、年をまたいで足掛け5カ月間フリーマントルで暮らしながら、旬のトップセーラーたちが乗る最新鋭の国際12m級によって繰り広げられる最上質のマッチレースを、報道者用のアルミ製小型ボートのフライブリッジに居座って、インド洋に照りつける強い太陽光線で雪目になったりしながら、至近距離で見続けた。
観戦レポート原稿を毎月毎号書き続けなければならないというつらい仕事はあったものの、現役レーシングセーラーとして、どんな教科書でも、どんなハウツー動画でも学ぶことができない、貴重な勉強をすることができた。
目からうろこが何枚も剥がれた。
レース日程の合間には、フリーマントル港にずらりと並んだ各チームのコンパウンド(ベースキャンプ)を訪問して、見せてもらえる範囲の艇体やアペンデージの性能最適化のための改造作業や、セールのリカット作業や、選手たちの日々のトレーニングや、日常生活を見て回った。
今では時代遅れだが、当時は、そこで見るもの全てがセーリングというスポーツ文化の世界最先端にあるもので、驚きの連続だった。そのときにニュージーランド(以下、NZ)やオーストラリアや米国チームにいたセーラーやデザイナーの何人かとは、今も交流が続いている。

NZ人のトップデザイナー3人(ブルース・ファー、ロン・ホランド、ローリー・デイヴィッドソン)がチームを組んで設計したNZ初のAC挑戦艇。それまでアルミで建造するのが当たり前だった12m級だが、NZはその常識を覆してFRP製の高性能12m級を造り上げた
photo by America's Cup
光り輝いていたクリスとデニス
世界的に有名なセーラーが多くそろうそのルイ・ヴィトンカップで、緒戦から強い輝きを放っていたのは、スキッパーのクリス・ディクソンを含めた20代の若者セーラーたちが操る、AC初参加のNZ艇だった。
予選ラウンドが進むに連れて、そのチームが放つ輝きは日増しに強くなり、そのほかの挑戦者たちは、米国からの1チームのみを例外として、その光の影の中にかすむようになった。
書き始めたばかりだった『Kazi』誌の連載レースレポートに、その時点でそんなことはとても書けなかったが、それが正直な個人的な印象だった。
唯一の例外だったチームとは、デニス・コナーが率いるサンディエゴ・ヨットクラブ代表チームだった。
コナーはその前の第25回ACでオーストラリアに歴史的な敗北を喫してしまい、まるで罪人のようにニューヨーク・ヨットクラブを追われ、自身の矜持を失わずに今後のレーシングセーラー人生を貫くためには、奪い取られたカップを自身の手で取り戻すしかない状況を背負ってフリーマントルに乗り込んでいた。
夏のフリーマントル沖のレース海面は、午後になって内陸にある砂漠に向かって“フリーマントル・ドクター”と呼ばれる強いシーブリーズが西から吹き始めると、極めて悪い波が立つ。
12m級というヨットは、こんな海でもフルセールでセーリングができ、しかも頻繁にセールが破れるほど激しいマッチレースを闘うことができるヨットだったのかと驚くくらい、過酷なレース海面になる。
そんな海でのレースの連続で、どちらかの艇が壊滅的に壊れたり沈んだりすることがない限り、間違いなくこの2チームが挑戦者の座をかけて選抜戦決勝を戦うことになるとシリーズ前半時点で確信できるほど、この2チームの艇の性能とスキッパーの能力は、ほかの11チームとは桁違いだった。
歴史上まれに見るエキサイティングなAC戦だったと評されているらしい第26回ACだが、オーストラリアの防衛艇とデニス・コナーの挑戦艇によるAC本戦そのものは、ぼくにとってはひどく退屈なヨットレースだった。
ただただ一方的に挑戦者が楽に勝った4レースだった。
マッドドッグ(狂犬)スタイルと評されていた防衛艇スタート・ヘルムスマンのピーター・ギルモアの戦法を、コナーはスタートライン近くに錨泊する観覧群を利用しながらうまくかわし、直線のスピード性能に優れる自艇の性能を生かすために、スタートした方向に長く走れるようなスタートをして、そのスピードによって一度頭を出したら、あとは緩めに防衛艇をカバーをしつつリードを広げていく。
そんな、少なくとも見るだけの側にとっては退屈なレースが続いた。
第26回ACに勝利して英雄に返り咲くことに成功したデニス・コナーにとって、若く勢いに乗っていたNZ艇を打ち負かした挑戦者選抜シリーズの決勝戦こそが、天下分け目の大決戦だったはずだ。
見る側からも、フリーマントルのあの夏、最も見応えのあった試合が、それだった。
僅差のレースが続いた決勝の5試合で、それまで表に出ていなかったNZのスキッパーの“若さ”という弱点を、米国のベテランスキッパーが見事に突いたと思えるシーンも何回か見ることができた。
ACというスポーツ文化の奥深さと魅力に、改めて気付かされたと思った。
もしデニス・コナーが挑戦資金不足に苦しみながらもこの回のACに出るという選択をしなかったら、クリス・ディクソン率いるNZ艇が、コナーの代わりに、コナーと同じように、防衛艇を軽々と破り、カップを手にすることができただろう。
もしそうなっていたら、クリス・ディクソンという稀代のセーラーは、NZセーリング界の主流に留まることができたかもしれないし、今もまだ現役で活躍していたかもしれないなと、時々思うことがある。
(文=西村一広)
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西村一広
Kazu Nishimura
小笠原レース優勝。トランスパック外国艇部門優勝。シドニー~ホバート総合3位。ジャパンカップ優勝。マッチレース全日本優勝。J/24全日本マッチレース優勝。110ftトリマランによる太平洋横断スピード記録樹立。第28回、第30回アメリカズカップ挑戦キャンペーン。ポリネシア伝統型セーリングカヌー〈ホクレア〉によるインド洋横断など、多彩なセーリング歴を持つプロセーラー。コンパスコース代表取締役。一般社団法人うみすばる理事長。日本セーリング連盟アメリカズカップ委員会委員。マークセットボットジャパン代表。