石原慎太郎さんへ、セーラーからおくる言葉

2022.03.23

陸の上では文壇の人、政界の人として名をはせた石原慎太郎さん。しかし、私たちヨット乗りにとっては、純粋なセーラーとしての顔しか思い浮かばない。ハーバーで出会う慎太郎さんから、気さくに声をかけられたヨット乗りがどれほど多いことか。愛艇〈コンテッサ〉を駈り、トランスパックをはじめ国内外の外洋レースを走り抜けた男。

その巨星が静かに落ちた。 

ヨット歴の長いセーラーなら、「湘南魔火矢(しょうなん・まひや)」という言葉を聞いたことがあるだろう。〈コンテッサ(伯爵夫人)〉の石原慎太郎さん、〈月光〉の並木茂士さん、そして〈マウピティ(舞宇飛帝)〉の岩田禎夫さん、三者が血盟し、アフターレースを楽しむために築いたシンジケートである。石原慎太郎さんが鬼籍に入り、ついに湘南魔火矢を発起した3人は、皆さんこの世から去ってしまった。今回、湘南魔火矢事務局の今岡又彦さんに連絡をとり、ご協力いただいたが、「海の上で起こったことは、陸に降りて話すべからず」という掟が湘南魔火矢にはあるとのことで、興味深いお話のいずれも誌面に書くことができないのが残念だ。 

〈コンテッサ〉の歴史は片貝造船で建造したJOG(ジュニアオフショアグループ)の21ft艇から始まる。ロングレースにおいて21ft艇の限界を感じ、〈コンテッサII〉は、オリエンタルボート製の36ft艇に。第1回チャイナシー・レース、第1回沖縄~東京レースなどに参戦。1963 年、1965年のトランスパックは40ftの〈コンテッサIII〉(岡本造船)で参戦、1973年には弟・裕次郎さんが艇長で再戦。〈コンテッサXI 〉(ベネトウ・オセアニス46)は1996 年にシーボニアマリーナで進水した。 外洋クルーザーでのレース参戦だけでなく、ヘレショフ製の木造ディンギーも愛し、意欲的に帆を揚げ湘南の海をどこまでも走った。やはり、ヨット乗りにとっての石原慎太郎さんは、どこまでも純粋なセーラーであった、という記憶しかない。

以下に生前を知る、戸田邦司さん、石原伸晃さん、馬場益弘さん、Tadamiさんの4人のセーラーから、大切な思い出を語っていただいた。これらの追悼文が、セーラー石原慎太郎さんをおくる言葉になればいいなと思う。

(舵オンライン編集部) 

 

石原慎太郎さん。日本のセーリングシーンの黎明期を支えたセーラー。2022年2月1日、永眠 

 

石原慎太郎氏、来歴

1932年9月30日/石原 潔・光子の長男として誕生

1934年12月28日/弟・裕次郎、誕生

1936年6月/北海道小樽市へ転居

1943年2月/神奈川県逗子市へ転居

1955年12月/石田由美子と結婚。『太陽の季節』上梓、第1回文學界新人賞受賞

1956年1月/『太陽の季節』第34回芥川賞受賞(当時最年少)。裕次郎、俳優デビュー

1968年7月/第8回参議院議員通常選挙で初当選

1987年7月17日/弟・裕次郎が死去(享年52)

1999年4月11日/東京都知事に当選。以降、2012年まで4選

2015年4月29日/春の叙勲で旭日大綬章受章 

2022年2月1日/死去(享年89)  

 

 

2015年に開催された湘南魔火矢の血盟大忘年会の様子。忘年会では「血盟湘南魔火矢組戦闘歌」が合唱される 

 

 

血盟湘南魔火矢組戦闘歌、歌詞

 

 

今岡又彦さん(右)と〈コンテッサ〉が受賞したトロフィーを前に

 

 

photo by Matahiko Imaoka

1996年、シーボニアマリーナで進水式を行った〈コンテッサXI 〉(ベネトウ・オセアニス46)

 

 

2010年7月に開催された第51回パールレースに参戦。晩年まで意欲的にレースに参加した

 

 

セールナンバー188、〈コンテッサXIII〉(ベネトウ・ファースト40)。最後の1艇は、本当に慎太郎さんらしいレース艇であった 

 

 

ヘレショフ製の木製ディンギーで葉山沖をセーリングする石原慎太郎さん


 

戸田邦司さんからおくる言葉  

●元 日本外洋帆走協会会長、現 日本海洋レジャー安全・振興協会会長

photo by Kuniji Toda

1995年、石原慎太郎さんが発起人代表となり、「戸田邦司さんの議員就任をお祝いする会」を開催したときの一葉 


 

最後までペンを握っていた作家としての彼の姿は、美しく誇らしく見事 

その昔、加藤ボートからクルーザー〈K7〉の製作監督の依頼を受けた。注文主は栗林定友氏。設計は小田達雄氏。葉山鐙摺で〈K7〉を見て、「俺も36ftくらいの船、造りたいんだけど知恵を貸してくれない?」。慎太郎、裕次郎ご両人が話しかけてきた。最初の出会いである。後年、小樽の裕次郎記念館を訪れたとき、戸田さんの名前があるよと同行の友人が気付き、〈コンテッサV〉設計者と書かれていた。驚いたが嬉しかった。慎太郎さんとは、「設計が悪い! 走らないぞ!!」「乗り手が悪いのだ」と言い合った。後にこの艇を買い取った人から「よく走っています」と報告が届いた。 

私の参議院議員出馬の際、慎太郎さんは比例順位が低いと激怒。「オリーブ、心配するな! ポパイ(戸田の愛称)の行く先は確保してある」。慎太郎さんの透明な声は忘れないと家人は言う。伸晃君は当時政治記者として国会内におり、「ポパイさんおめでとう!」と1対1で祝杯を挙げてくれた。4人のご令息は皆よい子、令夫人の尽力大と思うが、超個性的な父君を敬愛している。 

江の島に拠点を置く〈マウピティ〉号は、初代オーナーがゴルフ解説者草分けの岩田禎夫氏、慎太郎さんとは親しく、〈コンテッサ〉と「湘南魔火矢」なる組を作り、クルーを共有。12月には大忘年会を江の島の寿司政で挙行、慎太郎さんもヨットの仲間内では寛いで、目をパチパチさせることもなかった。 

日本外洋帆走協会(NORC)ではいろいろな経緯もあったが、石原会長の後を私が引き継ぎ、後に小型艇が中心であった日本ヨット協会と合併、現在の日本セーリング連盟(JSAF)誕生となる。 

当初のヨット仲間は、今、ほとんど天界に旅立ち、60余年にわたり楽しくやり合った慎太郎さんの逝去は本当に寂しい。最後までペンを握っていた作家としての彼の姿は、美しく誇らしく見事である。お世話になりました。長い間ありがとう。御魂安らかに安らかに・・・合掌。 


 

石原伸晃さんからおくる言葉

●長男。〈ヴィスコンティーナ〉オーナー

photo by Nobuteru Ihihara

ある日の葉山。親子3代でセーリングしたときのもの


 

キャプテンシンドバッドに捧ぐ 

今から半世紀前の伊豆式根島は訪れるヨットも少なく、リアス式の海岸線にはアンカレッジが点在した。遠浅の泊(とまり)や中の浦は夏の間、海水浴場が開設されるが、私たちヨット乗りにとっては絶好な停泊地となった。このすばらしく、そして愛くるしい小さな島を私が初めて訪れたのは中学生の時である。父、慎太郎の愛艇〈コンテッサ〉で三浦半島の油壺から半日がかりでやってきた。当時の式根島は天水にたよる水不足の島で、私たちヨット乗りが風呂や水を所望すると親切な島民は無償で分け与え、さらに名産のクサヤを焼いて島焼酎で小宴を設け歓待してくれた。私にとって島で過ごす時間は決して都会暮らしでは味わうことのできない、親切心と純朴な気持ちに満ち溢れていた。翌日、テンダーで足を延ばし大浦に向かった。 

そこには星条旗を揚げた一隻のケッチが停泊していた。乗員はおらず、いったいアメリカのどこから誰が来たのだろうという素朴な疑問とともに、この小さな船が太平洋を横断して式根島にたどりつく航海が想像された。今日のようにGPSや携帯電話もなく、船の性能も見劣りするケッチの旅は決して楽なものであろうはずもない。太平洋横断をなし遂げた乗員の感慨を頭中で思い描いていた。私は小学生の時ジュニアヨットスクールで操船技術をある程度習得していたが、間違いなくこの父との式根島クルージングで外洋の旅に心を奪われたのだと今思う。 

父のおかげでヨット乗りとなった私は現在、日本ジュニアヨットクラブ連盟の会長を務めている。私の時代と比べて今の小学生セーラーの技術は格段に高くなった。そんな子どもたちに伝えたい。喧噪とした夏の海岸に静けさが訪れた時、海岸線にディンギーをすべらせてほしい。寄せては返す波の音を聞き、伊豆半島に沈む夕日を目に焼き付ける。私が父から教わった海のすばらしさを。 

 

 

photo by Nobuteru Ishihara

〈コンテッサIII〉。慎太郎さんによるCaptain Sindbadのサインが書かれた一葉


 

馬場益弘さんからおくる言葉

●日本セーリング連盟会長

photo by Masuhiro Bamba

ジャパンカップ1988の表彰式、馬場夫妻と石原さんとのスリーショットは、今も額装しオフィスに飾られる 

 

 

ジャパンカップを通して交流した石原さんとの思い出

私が初めて石原さんにお会いしたのは、私が初めて挑戦した熱海大会、ジャパンカップ1988の表彰式の席でした。当時36歳の私は、ヤマハYR30R〈2代目サマーガール〉で参戦し、最終レースのオフショアレースで御蔵島の手前でフォアステイを切ってしまいリタイア。シリーズ15位、クラス3位とほろ苦いデビューであったものの、ショートオフショアレースで優勝できたことが今でも良い思い出となっています。 

石原さんは、1980年から1993年まで日本外洋帆走協会(NORC)会長を務められましたが、1988年当時は竹下内閣で運輸大臣を務めていたため会長職から外れておられました。表彰式の席で、石原大臣に気さくに二言声をかけていただいたことをよく覚えています。「ずいぶん若いね」と「頑張ってやっていればそのうちジャパンカップで勝てるよ、頑張れよ」というものでした。当時、石原さんは56歳。私とは20歳違うのですから当たり前の印象だと思います。 

その後、どちらかの会合で再びお会いしたのですが、その席でも私を覚えてくださっていて「頑張ってるか」とおっしゃっていただきました。その後も私はジャパンカップに挑戦し続け、2003年の江の島大会初優勝を含めてジャパンカップを4回手にすることができました。石原さんにいわれた「頑張れよ」を実際に行動に移し、正に「a dream come true」が実現したのだと思います。事情が許せば、慎太郎メモリアルヨットレースの開催を検討したいものです。 

石原さんは、海を愛し、自らのヨットで日本の海、世界の海を駆け巡られるとともに、日本外洋帆走協会(NORC)会長として日本のヨット界をけん引されました。ご家族の皆様のお悲しみをお察し申し上げますとともに、ご冥福を心よりお祈りいたします。 

 

 

photo by Masuhiro Bamba

木製のジャパンカップトロフィー


 

Tadamiさんからおくる言葉

 ●マリンイラストレーター

米SAIL誌に呼ばれボストンへ旅立つTadamiさんの激励パーティーの発起人を務めた石原さん

 

「お前みたいな奴は描いて描きまくらないと駄目なんだ」という 石原さんからの叱咤激励

初めの接点は、石原さんが建造したポパイこと戸田邦司さん設計のミニトン〈コンテッサVII 〉のカラーリングの依頼を、当時、石原さんの片腕だった今岡又彦さんから受けたときでした。その後しばらく経って、再び今岡さんから「石原と絵本を描いてみませんか?」という連絡をいただきました。この後、石原さんに対するビビりを味わうことになりました。 

出版社の担当者と打ち合わせの際の氏の対応、特に言葉の厳しさに縮こまってしまった記憶がまだ昨日のことのように鮮明に残っており、そこからは仕事相手には舐められてはいけない、という学びを得ました。それまでのヨット愛好者同士で接してくださっているときの、石原さんの世間の噂とは全く異なる紳士的な物言いとは真逆だったので、ビビった訳です。 

しかし、そんな石原さんの優しさを感じたのは、絵本『不思議な不思議な航海』についての別の打ち合わせの場ででした。当時のホテルオークラにあったレストランに呼ばれて行った、その日は7月でひどく暑かったのでYシャツにネクタイ姿でうかがったのですが、店内は場所柄、大物国会議員の方々が大勢スーツ姿。氏はそれぞれの方々と軽く会釈を交わした後で、僕のシャツ姿を一瞥して、支配人を呼ぶと「ここ暑いから僕も上着脱いで良いかなぁ」と伝え、おもむろにご自身の上着を脱いでシャツ姿になり、スーツ姿で暗かった店内で白一点で目立っていた僕をフォローしてくださったのでした。 

僕のポートフォリオを眺めながら「土用波」のイラストを見て「スゲェなぁ!」とつぶやかれたのは強烈な自信になりましたし、その後もお目に掛かるたびに「お前みたいな奴は描いて描きまくらないと駄目なんだ」という石原さんの叱咤激励は今も、僕の心の中に起爆剤として保存しております。改めて、謝意とご冥福を。 

 

 

石原さんとTadamiさんの共著、絵本『不思議な不思議な航海』(白泉社刊)


 

今岡又彦さんが所蔵する石原慎太郎著『太陽の季節』の貴重な初版本

 

 

逗子海岸にある太陽の季節の碑の献花台は、酒と花が途切れることがない


 

石原慎太郎さん戒名は、「海陽院文政慎栄居士」。葬儀は2月6日、石原伸晃さんをはじめ近親者20人で行われた

今後、一般のセーラー、愛読者たちのために「愛読者都民葬」の開催が予定されている。続報が決定しだい報告します。また、慎太郎さんの後を追うように、妻典子さん(改名前は由美子さん)が、3月8日永眠された。享年84。謹んでご冥福をお祈りいたします。

著書『私の海』のなかで「葬式不要。我が骨は必ず海に散らせ」と書いていたことも今となっては切ない。

セーラー石原慎太郎さんは、いまも海の上を笑顔でセーリングしていることだろう。

 

(文=Kazi編集部/中村剛司 写真=山岸重彦、舵社)

※関連記事は月刊『Kazi』2022年4月号にも掲載。バックナンバーおよび電子版をぜひ

 


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